2005年02月28日

波島と自分のルーツ1

以前のブログに書いたものだが、
島唄人生を語る上で欠かすことができないので採録した。
同じものです。


namisima1.JPG
宮崎市、波島にある沖縄料理屋さん。
写っているのはたるーの長男。



この波島という地域は沖縄出身の方が、あるいは2世、3世の方が多く済んでいる。沖縄に限らず、奄美などの方も多い。


たるーの生まれ育った権現町というところと車で5分くらいしか離れていない。海はすぐそこである。シーガイアも近い。

中学校の友人にはこの町の生まれの人も少なくない。
しかし、私にとって、ここが沖縄の人が多くすんでいるというイメージ
は中学校を過ぎてからのものであった。
肉天(肉のてんぷら)のお店がある、というくらいのイメージであった。
この肉天というのは、神戸のものらしい。

最近になって、帰省するたびにここへくるようになった。

近くにリトルオキナワがあったということを長く意識して
いなかったことにはすこし後悔の感がある。

しかし、自分のルーツを探るときに、父親が戦前の台湾の生まれであり
戦後船で引き上げ者として,宮崎のこのあたりに住まいを見つけた父親の中に、オキナワの人々が波島に定住する契機となったものと共通のものがあったのかもしれない、なあと思うことがある。
近くに海があり、さえぎるものがない広い空。

私の家の隣は養豚場であった。
小さい時から豚の鳴き声、匂いは家の中まで流れてくる。
たくさんのハエ取り紙を夏場はたらさないと暮らせなかった。

ハエを取るということは日常の遊びであったように記憶する。
輪ゴムで狙うのである。
昔は、生ごみを家の外のごみ捨て場においておくと隣の養豚場の
人がリヤカーで集めてまわり、豚の餌にしていた。
もちろん豚の糞は近所の畑へ。
完全なリサイクルが成り立っていたわけだ。

豚とともにある生活というのは、沖縄もそうであるが
南九州の昔のあたりまえの様子であった。

当然豚肉も多く食べる。
昔の豚ばら肉は歯ごたえがあり、もっと味が濃く
そして沖縄のもののように、皮がついていた。
そこには食肉検査用の青い印鑑がおしてあって
焼いた肉に青い線が残るのが子ども心に不思議なものとして
残っている。

何より、おやじ達が宴会をやると焼酎は当然のことながら
踊りや演芸がどんどん飛び出す。
覚えているのは鹿児島出身の与(あたえ)さんという方が
繰り出す踊りと口上の面白さ。
卑猥なこともいっていたように思う。近所の人もあつまり
ゲラゲラ笑っている宴会は子どもらもなんとなく面白くなる。

その焼酎の文化が、この波島からも影響を与えてきたという
ことを知ったのは最近である。

posted by たるー at 22:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

波島と自分のルーツ 2

DSCF0023.JPG

波島で長く続けられているというエイサーを昨年はじめて見た。


波島は戦前から沖縄、奄美の人々が渡来し、また戦後も食糧難を避け、比較的に食料が豊かだたという宮崎に定着し出来た町だという。(宮崎日日新聞による)


そして、食糧難の中でも生活のためにはじめた自給のための酒造りが、その後の宮崎のみならず、大分、九州の焼酎文化に大きな役割を果たしたという。
沖縄、奄美の蒸留技術を持っている人が宮崎のイモを材料として、五右衛門風呂でイモをふかし酒を作った。もちろん非合法であるから、当局の取締りを受ける。しかし生活のためのものをやめるわけにはいかない。

地区の人々は団結し、情報を伝達しあい、取り締まりがあると酒を甕にいれて土中に埋めたという。
それを捜索するために当局は長い棒を用意し、土中に突き刺し、その甕を割る。

長い間土中に埋められたその酒甕が、宮崎のリゾート開発でつくられた道路の建設現場から発見されたという。
見つけた作業者は、イモの匂いが消え芳醇な香りと琥珀色のその液体に酔いしれたという。まさに古酒になっていたわけである。

私が記憶する波島のイメージは「肉天」である。
神戸や関西方面の沖縄奄美出身の方々が移住してきて、伝えた文化とも言われる。今は大きな看板で「元祖 肉天」と書かれてある店を見る。

さて宮崎は20度の焼酎が多いが、その元はこの波島で「密造」された蒸留酒に当局が対抗するために許可した度数の焼酎だ。取り締まっても取り締まりきれないことに業を煮やした当局は、密造で多く作られる20度の安い焼酎を許可する。それにより、密造酒の出回りを阻止しようという策だ。

結果、宮崎を中心に20度の焼酎がいまだに多いのだ。
うちのおやじも、子どもの私のひざにのせて20度の焼酎を飲んでいたものだ。その匂いは私の身体にも染み付いている。

そして、波島は、奄美復帰運動の本土における火付け役にもなるほどの盛り上がりを作った場所であるという。

posted by たるー at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月27日

引越しです

まえのブログはどうも調子が悪く、ログが開かないときがたまたまありました。
友人の紹介で、こちらへ引っ越しました。

ついでに、コンセプトもすこし変えて。(変わってないって?)
まあ、いいでしょう。気を張らずに、最近、思うことを写真とともに書きましょう。

島唄人生というとなんか大げさだけど、子どものころから音楽が大好きだった。

ピアノをならいたくて貧乏な親にねだって知り合いからオルガンを譲ってもらい、西郷輝彦のお姉さんが近所で開いていたピアノ教室に通ったのが小学3年。

まあ、2年でやめました。理由は、周りが女の子ばかりで、置いてある漫画が少女漫画ばっかり。それに、オルガンで練習するから、ピアノのような打楽器的な奏法が身につかない。

教則本を2冊やってサヨナラ。

中学生でクラッシックギターを貰って、四季の唄を練習、弾き語りの魅力に取り付かれ、
フォークギターを手に入れて、井上陽水にはまり、友人らと遊びました。

高校では、勉強に嫌気がさすとギターの世界に。
深夜放送で聞いた、ハイサイおじさん、花という喜納昌吉さんの唄が
耳に残りつつも、フォークの世界にどっぷり。
ソニーの英会話専用のカセットデッキは2ウエイ録音ができるので
一人でギターを弾き、ハーモニーやリードギターを自分で入れたり、
多重録音で遊びふけてました。

しかし、憧れは世界にもとび、クロスビースティルスアンドナッシュ(CSN)
やらドッグワトソンやら。。ロックもハードロックの世界へ。
でもどうも電子音楽の世界に惹かれつつも飛び込めない。

自分の音楽の世界を模索していたんでしょうね。
これがたるーの音楽青春です。

それから20年。

三線を遠くながめつつ沖縄の魅力に取り付かれ、
沖縄を愛するように。

三線を手に入れた瞬間から、堰を切ったように
島唄の世界へ。

それは深く、自分の内面にはいりこみ、自分を変えつつも
どこか、遠い自分のふるさとの温もりのような感覚を得る。

唄うこと、演奏すること。

この二つを人間の生きる所作のひとつであるという確信を
深く、深く持つようになりました。

音楽は人間の「心の言葉」。

そして、島唄は教えてくれる。
人はもっと歌いなさい、昔のようにと。

言葉や映像や音楽があふれ、入ってくる情報はもう飽和している。
けれども自分を、あらわす内からの豊かな言葉を失った現代の私たち。

自殺者は過去最高になり、子ども達は、「凶悪」な犯罪に手を染める。
それをふさぐように法律は厳しくなり、監視を強める社会。
鬱積したものをさらに鬱積させると、いきつくところは暴発。

子ども達も大人の社会もみな、心の叫びを共有できなくてもがいている
のではないでしょうか。

いろんな「心の言葉」が、あるでしょうが、そのひとつに
沖縄の島唄が見直されているのではないかと思うのです。

だから、さー酒飲んで騒いで、そのときに沖縄民謡、島唄。
というのも悪くないけれども、自分が生まれるはるか
昔から、厳しい労働や、世情の中で歌い継がれてきた島唄への
敬意を忘れたくないのです。

大事にしたい。

そういう気持ちを込めて私は、沖縄民謡に関わり、敬意を込めて
唄い、それを通じて、自分の心の言葉を「取り戻し」たい。

私に沖縄民謡、三線を教えてくださっている沖縄の師匠仲西光雄
先生や多くの先生方への感謝をしています。

ということで、コリクツを述べましたが、
ぼちぼち書いていきます。

PICT0007.JPG

posted by たるー at 13:02| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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